第2回モンゴル旅行記

2000年8月4日〜13日

80老人モンゴル一人旅


4年前乗馬ツアーの際、通訳をしてくれたモンゴル女性、バットマーさん 
(以後Bさんと呼ぶことにする)から「お遊びに来てください」との電話を受けた。
子供たちからは単なる社交辞令ではないかとの話も出たが、
近来お呼びのかからない老人の心は動いた。
早速先方に二度ファックスを送り訪問の意を伝えた。


8月4日

 

 

多少のリスクは覚悟の上、一人関西空港から旅立った。

 ウランバートル空港に着いたのは、現地時間22時前だった。出迎えの群衆の中に、Bさんの姿はない???なんということだ!
 やがて乗客は全て立ち去り、自分一人が静まり返ったロビーに残された。
「頭が真っ白になる」とはまさにこのことか! 方法は電話しかない。

 係の人に電話をしたい旨、手まねで伝えると、相手は電話はないと手を振る。
  なんと、首都空港に電話がないなんて、まったく話にもならない。呆然と立ちすくむ私に、タクシードライバーが、10ドル出せば電話設置場所まで連れて行くとのゼスチュアーをしたが、断った。

 空港内で困っていると、空港職員の女性が 「ジャスト モーメント」 と言い残していなくなった。

 かなり時間が経って、日本語の話せる婦人をつれてきてくれた。
その婦人は「主人がタクシードライバーだから、電話のあるところまで案内しましょう」という。地獄で仏、私は快諾してこの婦人と乗車し、電話のある場所まで向かった。

 暗い夜道をかなり走って、薄明かりのついた一軒家が見えた。
  ここに電話があるという。だがこの家では電話が借りられず、更に市街地近くまで来てやっと電話を掛けることができた。
 電話を掛けてくれた彼女は「Bさんは入院中だが、宿泊先のホテルを知らせてくれれば、明朝迎えに行くから」との伝言を伝えてくれた。

 郊外のバヤンゴルホテルに着き、再度電話してもらい、先ずは安心、
タクシー代は5ドルだった。


8月5日

 当地は本当に涼しい10月下旬の気候だ。ホテルの前はトロリーバスが通い、
ベビーカーの親子、小さいリュックを背にした少女、スケーター遊びの子供たちなど、日本同様の情景が見られた。

 10時前Bさんが姿を現したが、4年ぶりとあって瞬間分からなかった。
聞けば、日本から送ったファックスは第二信目の最後の2行だけが届き、「誰か日本人が来るらしい」ということだけは分かったという。

 宿泊代83ドルはVISAカードですませ、迎えの車でBさんの兄の家に向かう。午前中、車中から市街を見学しながら、彼女と今後の旅行計画を相談したが、私の希望で、カラコルムに行くことにした。


 午後実兄の友人の運転する車で、Bさん、Bさんの実兄と四名で行程360キロの
当地に向け出発した。
 とても道路とはいえないすさまじい悪路を、80キロに近いスピードで飛ばすので、
車中の私たちはまるで踊るようだ。体格のいい二人は何事もなかったが、軽い私は頭をいやと言うほど天井にぶっつけ、目がくらむ思いがした。

 悪戦苦闘の末、夕暮れ時やっと途中宿泊地のバヤンゴビキャンプに到着した。
  ここで、小学5年位のモンゴル娘が、日本語で話しかけてくれたこと、中年のロシア人と会話したことも、今では楽しい思い出となった。

 ゲルの食堂で、モンゴルの高級酒100グラムを買って男3人で飲んだ。度数は40度ぐらいだが、癖のない焼酎の味がした。夜、Bさんの勧めで、涼しい草原に仰向けになり、迫ってくるような満天の星空を眺め感動したが、特に輝く北斗七星の美しさは今でも忘れられない。


8月6日

 カラコルムに向かう途中、時間に余裕があるからと、数少ない河畔のオルホンキヤンプ地に立ち寄り、男性二人は魚釣りを楽しんたが、魚は一匹も釣れなかった。
 やがて、カラコルムに着いた。

 広大な草原に正方形に区切られた一画が浮かんでいる。
 これがエルデニ,ゾー寺院だ。高い外壁には108の仏塔が置かれ、中には東面向きの
三殿が並び、前方は広い原っぱである。

 この寺は仏陀教寺院で1220年完成、1586年移転したものだという。
門を入るとソフラカという面白い形の白塔が目についた。
 私たちが参拝した折、たくさんの僧侶が読経をしていた。

 寺院の中には多数の極彩色の仏像が祀ってあった。特に人の頭蓋骨の食器や、
18歳の少女の足の骨で作ったという骨笛が眼を引いた。
  この楽器は人生の短さを哀れむような、独特な音色を出すという。参拝のあと、早々に帰途についた。

 昼食は路上に立ち並ぶゲルの食堂街でとったが、味はまあまあ。
また、しばらく走らせて、昨晩のキヤンプ地に着いた。

 私たちは付近の遊牧民の家で馬を借り、牧民の先導で近くの砂山に向かった。
  8歳と11歳ほどの子供が、裸のまま二人一緒に一頭の裸馬に乗ってついて来た。
彼らは草原を楽しそうに駆け回っていたが、父親から羊の世話をしないと叱られ
帰って行った。子供にも子供の仕事があるらしい。

 しばし乗馬を楽しんだが、4年前に比べ、体力が著しく衰えたことを痛感した。
  砂山に着くと、Bさんが「靴を脱いで裸足で歩くと、とても気持ちがいいよ」という。
私たちは馬を牧民に預け、くるぶしまで砂に埋まりながら砂山を歩いた。

 やがて頂上に着き左を見ると大変な坂だ。Bさんが「一緒に駆け下りてみましょう」
と言う。私はさすがに躊躇したが、たとえ転んでも下は砂地だからけがをすることは
なかろうと思い変え、Bさんについて、この前につんのめるような急斜面を一気にかけ降りた。危なかった!

 乗馬を終えキャンプに帰ったとき、楽器を携えた、きらびやかな民族衣装の楽団員が、ゲルの前で休んでいた。

  夕食時、モンゴル酒を飲んだが、同行のドライバーが酔っ払ったのか、「こんなきつい仕事だから、100ドル今すぐに欲しい」という。私はすぐに手渡したが、Bさんは大変不機嫌になった。「ウランバートルに帰ったら、あなたと相談して、それ相応のお礼をする筈だったのに」と彼女は愚痴る。

 夕食後演芸団の出し物を見に出かけたが、開演後10分位で停電、それからはろうそくで続けたが、暗くて踊り子の姿がどうやら目に入るだけだった。
 自分のゲルに帰った時には点灯していた。しばらくすると、楽団員が、表敬演奏をしたいといってきた。日本のお年寄りが、わざわざ上演を見てくれたからという。
こうなれば受けないわけにはいかず承諾した。

 演奏が終わってから記念写真を撮りご祝儀に20ドル渡すと、彼らは何度もお辞儀をして出て行った。Bさんとゲルにいると、兄と友人が入口に来て、なにやら挨拶し私ら二人を残し立ち去った。
 「今晩はゆっくりお話しましょう」と、Bさんが言ってくれたが、私は疲れていたので、
すぐに寝入ってしまった。

 


8月7日

                  

 

 

 

 

 

 

 

 老人は朝が早い。薄明かりの中、目覚めてトイレに立った。
そっと起きたはずなのに、Bさんが犬のなき声に目覚め、犬に噛まれると心配して
後をつけてきた。誠に申し訳ない。
 早朝二人でキャンプ内を散策中、兄たちの車が帰ってきた。
どこへ泊まりに行ったのだろう?Bさんの話では、彼女が二人に、酒に酔ったことを
ひどくなじったから、車の中にでも寝たのだろうとのことだった。

 朝食後またウランバートルに向け悪路の旅に出た。
  数十分走って、小さなガソリンスタンドに立ち寄った際、前タイヤが釘を拾っているのに気づいた。

 給油の後、タイヤを外しにかかったが、なにせ中古のぼろ車、ナットの角が摩滅し、空回りして外せない。店からいろんな道具を借り、三四十分費やして、どうやら
スペアーと取替えできたものの、なんとサイズが小さい。
 とりあえずこれをつけて、店員の案内で数百メートル先のパンク修理屋へ行た。
  だがここでは全てが手動のため、修理になんと1時間半近くもかかった。

 走行中カラコルム行きの、フランスの若者男女4名のライダーに出会う。気温は17度位だから、オートバイでは寒かろう、元気のいいことだ。 
 やがて車は、市街地に程近い日本人経営の馬肉工場を右に見ながら、ウランバートルに帰着した。

 中国料理の昼食後、今度はBさんの甥の運転する車に乗り換え、小雨のなか
市内観光に出た。
 ふと、Bさんが、「おじさん、日程に余裕があるようだから、ロシアに二、三日行ってみない?私のロシア語は同時通訳ができるくらいだから」と言い出した。(彼女はいつも私をおじさんと呼び、決しておじいさんとはいわない。これは嬉しい、老人のくせに。)

 今回を外したらもう二度と機会はないと思い、早速ロシア大使館にビザの申請に行った。そこでは二人の関係を尋ねられ、友人だと告げると、不審そうな顔つきでじろじろと見られ、ちょっといやな感じだった。そして相手は明日のだから500ドルだという、あまり高いのでロシア行きはあきらめた。

 家に帰ると、思いかけず、近くに姪の娘の誕生祝に招待された。物珍しさもあって、私は出席させてもらうことにした。
  宴席中央には日本のものと瓜二つのバースデイケーキが置かれ、お茶とお菓子だけ、酒、肴は一切ない。

 来客は大学の退官教授を始め、内科医、歯科医、ピアノ教師等々の面々で、いささか気後れしたが、請われるままにBさんの通訳付きで簡単な祝辞を披露した。
帰り際、Bさんと相談し、お祝いを差し上げた。
 今夜は兄の家に泊めてもらう。当マンションはかなり古いが、トイレ付き浴室が
二室のほか広い応接室があり、本箱になんと、曽野綾子の日本書籍が並べられていた。友人のアメリカ人が置いていったものだという。



8月8日

 午前中に航空会社で帰国便の確認を済ませた。兄の家で相談した結果、費用と日数の関係から、南ゴビ行きは無理なので、近郊に出かけることにした。
  その折兄が、日本、中国の古い1円銀貨を30枚ほど見せてくれ、高値なら売りたいといったが、古銭のことはよく知らないと答えた。

 夕刻、甥の運転する車に、釣具やわずかな寝具も積み込み、Bさん、Bさんの兄、 兄の次女と私の4人が同乗し出発した。
 途中市場で、各種食料や簡単な生活用品を購入し、キャンプ村に着いたのは午後9時ごろだった。

 到着が遅れたためゲルは満席、やむなく二部屋続きの長屋に分宿したが、まさに木賃宿、かなり程度が悪い。
  問題はトイレだが、これも汚い。Bさんが、原っぱで用をたしては?というが、そうもいかない。

 トイレに立った際、音楽につられダンスホールを覗いて見ると、七八人の若者が 踊っていたが、なんとなくわびしい気がした。
  みんなは私に、持参の唯一のふとんを掛けてくれ恐縮したが、それでも枕もとの 隙間から、風雨が吹き込み寒かった。
 今時分故郷では暑くて寝苦しい夜をすごしているのに!



8月9日

 今日は運悪く朝から小雨。内壁の数多い落書きの中に、日本文字で「わたしわ?わたしのなまえはエンフーンです」というのを見つけた。
  小学生が書いたのような文字だったが、Bさんがインフーンと書くべきだと言った。

 朝食後男性3人で、近くのテリッチ川へ魚釣りに出かけた。釣りの経験のない私に、二人はなにくれとなく世話をしてくれ嬉しかった。

 昼食はゲルで自炊、食後出発。途中小雨の中、カラフルな雨具をまとった20名ほどの日本人乗馬集団に出会い、挨拶したが相手は極度の緊張か、返事は返ってこなかった。

 とある集落でヤクに乗せてもらったが、ヤクはすごく大きく背も広い。跨ると両股がぐっと横に開く、馬とは段違い。牛より力が強いのもうなずける。

 夕刻早めに、テレルジのホテル「ウランバートル2号館」に着いた。これはかなり高級、寝室にはWベットのほか二台の補助もベッドが用意され、トイレ付き浴室が二箇所、広い応接間には革張りの応接セットが置かれていた。 それに値段が26.2ドルと格安である。

 兄がビリヤードに案内しくれた。彼以外はみな初体験だったが楽しく遊ばせてもらった。
 夕食後5名全員が応接間に集まり、持参のトランプで遊ぶことにした。
日本の遊びを教えてほしいといわれ、ババ抜き,七並べで興じたが、更にといわれ 神経衰弱も披露した。
 夜更けまで遊んで男性二人はゲルに引き上げたが、補助ベッドが二台あるので、 女性二人は同宿することにした。



8月10日

 チェックアウトの際、三人泊まったからとて、三倍の料金を請求されて驚いたが、 言いなりに支払うほかなかった。娘は自分の分は払うと言ったが押しとどめた。

 今日は山向こうの麝香鹿の養育地に行くつもりだったが、これらの鹿は麝香採取のため、月一度呼び集められるだけ、しかも貸し馬代も一時間5ドルだと聞き中止した。

 最初に来たのは高さ15メートルほどの巨大な「蛙岩」((或る本では亀岩)、なるほど、どちらにもよく似ている。
 次はテレルジ恐竜村キャンプ、奇岩の前に実物大の、大小さまざまな恐竜の模型が点在している。

 私たちはそこで、用意された羊の皮の的に向け、それぞれが二三回弓を引いたが、しまいに矢じりが折れ、罰金を請求された。
甥が「乾燥した古木を使うからだ」と、因縁をつけると、相手の女性もさるもの「歯抜けのくせに何を言うか」 二人のやり取りに、皆思わずふきだした。

 しばらく車を走らせて、とある集落に着いた。ゲルの中では、交代で絶えず馬乳酒をかき混ぜている。牧民は夏季は馬乳酒とバターで、肉食はしないという。

 この家の人々は、一様に髪を短くしているので、男女の区別がつきにくい。
 主婦らしい人が、手作りのパンや、スーテイチャイ(羊の乳とお茶を混ぜた飲み物)を出してくれたが、白砂糖が、黒くなるほどのハエには驚かされた。
 その時、子牛が突然もぐりこんで来て出ようとしない、子供が力ずくで外へ引きずりだした。
 外では子牛六,七頭がたむろし、車の中さへも頭を突っ込んでくるが、どれもとてもかわいい顔をしている。

 牡山羊の腹に、皮の前掛けが垂れ下がっているのも面白い。これは仔山羊が育たない厳冬期に、出産させないための知恵だとか。そばでBさんが「牡山羊はかわいそう!」と笑う。

 牧民の案内で、私たち一行5名は馬で平原を回った後、或る集落に立ち寄り、 野営のため布だけのテントを借り、猟銃を携えた彼と共に、車で今夜の宿営地に急いだ。

 保護区入口から中へ、50キロほど草原を突っ走って,夕暮れ時目的地に着いたが、水がないため、若干バックして水の湧き出し口付近で野営を決めた。
男たちは立ち木を切ってテントを張る一方、枯れ木を集めて焚き火を始め、女性は水汲みに出かけ炊事にかかった。私も草を押し分け小川に行ってみたが、水は驚くほど冷たかった。

 この焚き火は暖を取ると共に、焼き石によるタルバカ料理を作るためでもあった。
牛乳を詰めるような円筒形の缶に少量の水を入れ、その中によく焼けたこぶしほどの石五六個をほり込むと、ジャーと水蒸気が上がる。これにすかさず、持参のタルバカ(体長5〜60センチぐらいの野生哺乳動物)一匹分の枝肉や内臓を入れ、野菜と調味料を加え、更に残りの焼け石数個を放り込み、焚き火を強くして、でき上がる。

 先ず火の神に感謝して、肉の一切れを火中へ投げ入れ、会食が始まった。
太陽が沈むと、温度が急激に下がってきた。皆は焚き火を囲み、互いに酒を酌み交わし、タルバカ料理を味わいながら、共に唄いかつ踊り、宴は夜遅くまで続いた。

 家畜の入らない草原は、草が伸び放題1メートル以上もあり、その重みで、全て団子状に折り曲がっている。
 テントでは、このふわふわした草の上に敷物を敷いて寝た。甥は私が借りて着ていた、モンゴルの綿入れを持って車に帰り、残り五名はテントで雑魚寝。みな着のみ着のままで横になり、体を寄せ合って寝た。
 私には持参のふとんを掛けてくれたが、夜が更けるとそれでも寒い。

 


8月11日

   昨夜は咳が出るからと甥は気を使って車内に寝たが、寒さで一睡もできなかったとこぼす。
 車は鉄だから、布のテントよりずっと寒気が伝わりやすいとか。
「ここは人のいない所だから、いくら寒くても風邪は引かない」とBさんがいう、南極での話みたい。

 朝食は、Bさんがご飯を炊いてくれたので、持参したレトルトの味噌汁が役立った。ほかの人はもちろん、昨夜のタルバカ料理と黒パンである。

 狼や熊の襲来のため用意した単発猟銃だが、ここでは的を作り、みんなで射撃を楽しんだ。私は3発のうち1発が命中したようだ。
 キャンプ地を引き払い、車を走らせることしばし、トウル河畔に着いた。
見ると橋の一部が壊れ、麝香鹿山への通路は断たれていた。予定を変更してよかった。

 モンゴルの風習では、河水に頭を浸けて幸運を祈るという。
私はやらなかったが、澄み切った青空の下、童心に帰り、Bさんと石投げを競った。

 ここを9時に出発、昼過ぎ案内してくれた牧民の家に着いた。
そこで馬を借り、2キロ近く離れたのカザッフ族の家庭訪問に出かけた。
 ゲルに着いたとき、主人は放牧に出て不在だった。ゲル内には繊細な見事な刺繍の織物が飾られていた。

 カザッフ族は刺繍が得意だそうだ。奥さんがどんぶりいっぱいの馬乳酒を勧めてくれた。Bさんが「せっかくだから、よばれなさい。飲み残しは、私が飲むから」という。飲み残しては失礼だ、と無理をして飲み干した。だが、これがいけなかった。

 カザッフ族は高山地域に住む民族で、独特な文化をもち、宗教上の理由から 牛馬は食べないし、民族語はBさんにも分からないという。
 やがて主人が帰り、得意の馬頭琴を奏でてくれ、昨年の冬仔馬二頭が狼に襲われたことも話してくれたが、厳しい北国の現実を思い知らされた。

 外に出ると、二人の猟師が馬に乗り、タルバカ猟に出かけるところで、一人は白い衣装をまとっている。巣穴の前で白い服で踊ると、好奇心の強いタルバカが巣穴から出てくる。そこを狙い撃ちするそうだが、その姿を想像するとおかしくなる。
 この訪問を最後に、馬や車を乗り継ぎ帰途に着いた。

 


8月12日

 昨夜はまた兄の家に泊めてもらった。
朝早く、Bさんが梅干入りのおにぎりセットを買ってきてくれたが、食欲がなかった。
 今日はウランバートル市街の見学の予定だったが、下痢がひどくて、それどころではない。昨日の馬乳酒が原因のようだ。


 幸いここの奥さんが内科医なので、すぐに下痢止めを飲ませてくれた。
夕方近く少し症状が軽くなったので、Bさんとデパートに土産品を見に出かけたが、 用心してすぐに帰った。

 後でBさんが、孫の土産にと子供用のモンゴルの礼服と、蒙古靴を持って来てくれ、パンパースを買い忘れたという。(私の下痢がひどいために)「いろいろありがとう、でも、もう大丈夫」と答えたが、その後も、依然下痢は止まらなかった。


 夕食時、奥さんが二時間おきに二錠飲むようにと、また錠剤を持ってきてくれた。1時間おきの水様便で、一時は帰国さえ危ぶまれた私だったが、おかげで夜の10時を最後に、下痢はぴたりと止まった。



8月13日

 早朝奥さんが聴診器と血圧計をもって診察に来てくれ、終わると、笑顔を残し無言のまま退室、私も笑顔で応答、お互い話は通じない。
 やがてBさんが見えた。兄が、白味噌のようなものを黒パンに乗せてもって来た。
これは羊の脳ミソで、とてもおいしいから味だけでもというが、どうしても食べる勇気がなかった。

 いよいよ出発、兄家族にお礼をして家を出ると、Bさんの母親が新しい服を着て見送りに見えた。私の渡した謝礼金で、Bさんが買ってあげたものだとか。
 兄の運転する車で、Bさんと医大生の姪が、空港まで見送ってくれた。
全ての手続きが終わり、空港使用税12ドルを残し、みんなと握手を交わし別れを告げた。

 空港使用税を支払ったつもりが、なぜか証明書らしきものと、モンゴル紙幣を渡された。なんかおかしいと思ったものの、なにせ言葉が通じない。見ると、向こうにまだBさんがいたので、このモンゴル紙幣を手渡し別れた。

 中に進み、その証明書を提示すると、相手は手を横に振る。なんとこれは両替の証明書だった。さて困った。今は日本円があるだけ、そしてもうBさんはいない。
 途方にくれていた時、まさに天佑か、近くに日本語の話せるモンゴルの男性がいた。

 彼に二千円渡し、やっと空港使用税領収書を手にできたが、どじな自分がなんとも 情けなかった。かくして関空行きの便に搭乗、10日間のモンゴルの旅は終わった。

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